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2012年05月13日

走井居と瑞米山月心寺

京都から大津へ向かう国道の半ば、ちょうど逢坂の関に差し掛かる手前の南側にひっそりとした雰囲気の寺があります。
石柱が立っている訳でもなく、塔がそびえているわけでもないので一見見過ごしがちですが東海道を徒歩で歩く人達にはよく知られているようです。


この場所は江戸年間には入洛者が多く集まり、走井と呼ばれる名水を囲んでいくつかの茶屋が栄えていました。
逢坂の関についての歌も沢山詠まれていて、蝉丸や松尾芭蕉、小野小町などにも所縁のある土地となっています。



この寺の名は瑞米山月心寺。元は走井居と名付けられた日本画家、橋本関雪の別邸です。
本来は走井居の西側に位置する墓所と本堂を以て月心寺とされていましたが、宗教法人移行時に両方を共に寺院として遺されました。
初代は天龍寺慈済院の村上獨譚老師。この老師については山田無文老師の「花園の思い出」に少し記載を見ることが出来ます。

私達兄弟の名前もこの老師の名付けによるもので、本来なら天龍寺で大きな立場を得るはずであった人ですが妻の遺骨を傍に置いたままの関雪に「きちんと弔ってやらねば成仏できんぞ」と言ったが為にこの月心寺の住職となった人です。


老師が従軍する直前に関雪が「では大津の別邸に墓を作るから、そこに入って住職となってくれ」と要請しました。そして獨譚老師が現地で戦没者を弔い、その後生きるか死ぬかの状況でようやく帰国を果たしたその時既に関雪は鬼籍に入っていました。その時はまだ宗教法人にはなっていなかったので、一度墓所を宝塚に移す意見もありましたが老師の「広い場所は手間がかかるから嫌じゃ」という言葉によりそのまま大津に残されたのでした。



その後、村瀬明道尼という尼僧が獨譚老師の世話役として寺に入り、老師の死後湯木貞一さんや白洲正子さんの紹介により「ほんまもんの胡麻豆腐を作る庵主」という事で有名になりました。でも確か湯木貞一さんが褒めたのは人参の煮染めだったような気がするのですが。いつの間にか胡麻豆腐を褒めたことになっていますよね。




その村瀬明道尼も昨年に引退し、瑞米山月心寺は再び橋本家の管理に戻って来ました。
実は私は元々月心寺の面倒を見るように言われていたので、ようやく本筋の事が出来るなと思っているのですが以前とは違って白沙村荘の事も行わないといけなくなりましたし、先代が精進料理で名を上げた為に精進料理を求める人も後を絶たない状況です。

幸いにして料理方は美山荘で修行の後、紫野和久傳で料理長を務めていた中村茂雄という適任者が天の采配のごとく現れましたので心配なし。村瀬明道尼に負けない実に見事な料理を作ります。


とりあえずはこの走井居に遺されている蝉丸の、松尾芭蕉の、小野小町の、明治天皇のそして逢坂の関と走井の文化遺産を、精進料理を求めてくる方達にまずはお伝えしながら橋本関雪が残そうとした世界をまた引き継いでいく事にします。





まるで情報が出ていないので、これが関雪の寺であるということも知らない人が多いのですよね。
夢枕に立たれてしまう前に祖先に孝養を尽くしてみようかとそういう話です。


  


Posted by ハシモトシンジ at 22:41Comments(0)【勤務日誌】