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Posted by 京つう運営事務局 at

2011年05月04日

関雪の◯◯が

近年になり来館者が「実は関雪の◯◯が・・」と話しかけてくることが増えてような気がします。


先日は「私の書の先生が、関雪の孫さんです」、今日は「広島の呉に関雪さん家の門が移築されてます」などの真偽定かではない話が飛び交うわけです。
正直、受付でいきなり話し始めている時点でかなりいい加減な内容だと推し量れるのですが・・。


この「関雪の孫」や「関雪の子」というのもかなりナーバスな問題なので、実はあまり答えたくはないのです。白沙村荘に居ない子孫の方々は大体が妾妻筋か、または関雪の孫で嫁いだ女筋がそう言っている場合が多いのですから話しにくい事この上ないです。


こういった事に起因した問題は、外部からの調査に対する時に起こります。

先日も「常滑に関雪の冬花庵が移築」というニュースが一部で流れていましたが、実際は「常滑に関雪の冬花庵にあった観音堂が移築」が正解です。その後説明をしましたら、移築先のお寺で「それとはまた別の話として、冬花庵という名前にする」と返事がありました。


それはそれで良いとして、経緯を知らないと後世でややこしくなりますよね。孫、ひ孫の話も実はそういった明文化されていない中でのややこしさを孕んでいます。




一番憂慮されるのは、こういったあまり詳しく知らない人からの情報ソースが正確なものと外部に認識されること。関雪という人物は、当時竹内栖鳳と確執のあった時期に非常なバッシングを受けています。

ですから当時の新聞も雑誌記事も決して好意的には関雪を捉えず、さらにその渦中にあって関雪自身も酒に走った傾向もあったようです。そして関雪自身が書き残した資料などは全体の半分も外部にでておらずに、未だ白沙村荘に原稿が遺されている事実があります。



これを知らずに当時の新聞や雑誌、そして出版物だけを頼りに関雪像を作ろうとすると大失敗となるわけです。先日ミネルヴァ書房から出版された本も従兄弟筋や妾妻筋の人間が複数関わり、内容的には図版入りの詳しく書いた年表みたいな感じでした。白沙村荘に著者が訪れたのは刊行のわずか数ヶ月前でしたから、こちらからの資料提供は全く無しとなりましたので残念に思っています。




今後関雪生誕130年、そして没後70年の節目を控え出来る限り正確な形で関雪の人間像が後世に伝わり、良い方向に向かえば良いと考えています。その為にも早期の資料整理と公開は避けて通れない道のようです。

  


Posted by ハシモトシンジ at 15:46Comments(0)