2010年08月30日
観光という言葉 0830Mon
特に京都にいると耳にする「観光」という言葉は、いつも違和感を伴いながら耳に届く。
まだ小さな頃に父が話していた「観光」に関する話の影響なのか。
確かあれはまだ5歳くらいだった気がする。
父もやはり易経の話を持ち出して、「今の京都で行われているものは本義ではない」と説明してくれた。
その後に白沙村荘の仕事に携わり、観光地、観光客、観光寺院、観光バスなどの自分にとっては意味不明な言葉が日常的に聞かれるようになりました。
しかし未だに「観光客という客はいないし、観光地という場所もない」と考えています。
もし今あるそれを観光と呼ぶならば、その内容に関しては「訪れる人が、訪れた先に関して知識と理解を深める事」が必要なのではないかと思うのです。
人間同士が相互理解しながら、互いの持つ文化と環境を理解する。
なんとも難しい話ながら、やれれば世の中少しはマシになると思いますが。
今の世の中に足りないのは、他者への理解と敬意ですから。
まだ小さな頃に父が話していた「観光」に関する話の影響なのか。
確かあれはまだ5歳くらいだった気がする。
父もやはり易経の話を持ち出して、「今の京都で行われているものは本義ではない」と説明してくれた。
その後に白沙村荘の仕事に携わり、観光地、観光客、観光寺院、観光バスなどの自分にとっては意味不明な言葉が日常的に聞かれるようになりました。
しかし未だに「観光客という客はいないし、観光地という場所もない」と考えています。
もし今あるそれを観光と呼ぶならば、その内容に関しては「訪れる人が、訪れた先に関して知識と理解を深める事」が必要なのではないかと思うのです。
人間同士が相互理解しながら、互いの持つ文化と環境を理解する。
なんとも難しい話ながら、やれれば世の中少しはマシになると思いますが。
今の世の中に足りないのは、他者への理解と敬意ですから。